そもそも、親に愛されなきゃいけなかったのかな?

私はネグレクトされて育ちました。そのせいでいっぱい恥ずかしい思いをしましたし、実家で過ごした期間は嫌な思い出に満ちています。

実家を出て20年近く経ちます。一方で、実の両親と暮らしたのは10年足らず。親と暮らした時間の人生に占める割合は加速度的に低くなってきています。

幼少時の傷についてブログに感情をあらかた吐き出してみて、「確かに嫌だったけど、何か不都合あったんかいな?」と思い当たり、しばし考え込みました。不幸な自分という自己イメージに囚われすぎているのではないかと。

私は、不幸でしょうか?

ネグレクトされたことは傍目には可哀想です。でも、主観的には?現時点で親と没交渉なことに何の不便も感じていないように、子どもの頃も親なんて必要なかったのでは?

確かに生きていく上で両親の齎してくれるお金が必要で、それこそ身悶えるほどお金が欲しいと思う場面は多々ありました。お金が稼げない年齢であることを呪いました。

でも愛情をそれほど狂おしく求めたでしょうか?そんなことはありませんでした。学校から帰って親がいないとホッとした記憶はあります。母がいない日は晩ご飯を作らなければならず面倒でしたが、それでも嬉しかったのです。毎朝着替えを父に覗かれるのが憂鬱で鍵をかけて着替えをしていたら、鍵ごとドアを壊され絶望したこともあります。記憶を辿ってみると、両親と距離を置きたいと願ったことはあっても近づきたいと思ったことはありませんでした。両親は『なんだか怖いもの』だったからです。

振り返ってみると、愛さない両親と愛されたくない私のニーズは合致しており、愛情という点において私は特に不幸でも幸福でもありませんでした。思春期の子どもにとって大事なのは家族より友達やクラスメートですしね。子どもは両親の愛情を受けて育つという常識に毒されすぎていたために、勝手に不幸だと思い込んでいたようです。

普通でないということは決まりが悪いものです。親は子を愛すもの、子は親を慕うもの、こういった固定観念は私を長年苦しめ、そのせいで私は両親との関係をうまく処理できないでいました。ですが、周りの目を一旦脇に置いて考えてみれば、そこには何の問題もありません。ただちょっと奇妙な、でも当事者は何の不都合も感じていない一家庭があるだけです。

そっか、私はそこまで不幸じゃなかったんですね。常識と少し距離を置いてみると見えてくるものってあるなぁ、と思います。