育児という奇妙な営み

幼い頃、大人はなぜ子ども時代を過ごしたのにこんなにも子どものことを分かっていないのか疑問でした。きっと忘れてしまったのだろう、でも私は覚えていよう、そんな風に思っていました。

その頃は子どもを持つことについてはぼんやりとしか考えていませんでしたが、育児をするときには私がやられて嫌だったことだけは絶対やるまいと、それだけは誓っていました。

今となっては無駄な誓いになってしまいましたが、大人になって振り返ってみると、両親が子ども時代を忘れてしまったかはともかく、彼らがしたことは結局全て私のためになったのだという思うようになってきました。

親から捨てられたこともシビアな目線を身につけられたという意味では私にとっては良いことでした。幸せな記憶が育んだものも多分あるのでしょうが、私の芯を作ったものはどれも辛い経験から学んだことばかりです。

また、「あんなことがあっても頑張れたんだから、もう少し踏ん張ってみよう」と思えるようになったので、辛い経験は人生の良い糧です。所謂若い頃の苦労は買ってでもせよ、というやつです。長じるにつれ、勉強だけできていれば最低限格好がついたのが、加齢による衰えや親族関係、職場の人間関係、仕事、資産運用と気にかける要素が増えて段々人生の難易度が上がってきます。子どもの頃から難易度高めの人生だと、後で多少難易度が上がったところであまり堪えません。ろくでもない両親の元に生まれついた方が子どものためには良いのではないか、そんな風に個人的には思ってしまいます(事実は全く逆だということも分かってはいますが)。

子育てというのは世話を焼いたり教育したりする能動的な行動だけではなく、両親の行動そのものなのだなと思います。一生懸命教えたつもりのことが全く伝わらないのに、ふとしたことが子どもの一生を左右してしまうこともある、端から見ていれば面白いけど、恐ろしくて当事者にはとてもなりたいとは思えない、奇妙な営みです。