悪者に肩入れしすぎる

ブログを書いていると自身の思考の癖がよく分かります。ひねた性格で物事を素直に捉えられないのは自覚していましたが、書いたものを読み返してみると悪者に必要以上に肩入れしがちであることを発見しました。ここで書く悪者とは、世間一般に悪いとか怖いと言われているもののことで、実質的に悪であるかは問いません。

例えば、イスラム教は何だか怖いと言われると自分自身がバカにされたように反感がむくむくと湧いてきて、でもイスラム教のことなんて実際何も知らないので言い返す事も出来ず、腹が立った勢いでムスリムとばかりとつるんだり、イスラムのお祭りに参加したり、果てはイスラム金融の勉強にまで手を出したりしてしまいます。

ロシアが悪いと言われれば、アメリカのイラク侵攻と具体的に何が違うのだろうか、国際的な同意が得られていなかった点については一緒じゃないのか、アメリカが当時していた弁明とロシアのウクライナ侵攻の正当化は多少ロジックが違うだけで胡散臭さはどっこいどっこいじゃないのかとこれまた腹を立ててロシアの新聞を読んだりロシア語を習い始めたりウォッカを飲み始めたりします。彼らが正義かと言われると大いに疑問符がつくのですが、理論武装があまりにもロシア的で国際社会に迎合しようといったケレン味がないのが彼ららしくて愛おしくも感じます。

他にも、金持ちはいいよな、とか高学歴は鼻持ちならないといったことを聞くと、彼らの苦労を側で見ているだけに心が痛みます。弱者へのからかいよりも強者へのそれは執拗で、うまく適応しようとする彼らの痛々しい努力を見ると、なんだかこちらまで辛くなってしまうのです。

私はどうしても小さな問題に目がいってしまうようで、身近にいる誰かがその人自身のせいではないことで肩身の狭い思いをしているのを見るのが嫌なんですね。どうしても、養子だから、障碍者だから、低学歴だからとレッテルを貼られていた頃の私を思い出してしまって遣り切れなくなるのです。

 

余談

私のひねくれぶりは相当なもので、色々酷いことをしてきた両親に対しても口を極めて罵ることができません。彼らが私にしてきたことは社会通念上許されるものではなく、私は良心の呵責なしに彼らを罵倒する大義名分がある、そう信じています。でもだからこそできません。

彼らも私が生まれた当時は今の私よりずっと若かったわけで、障碍を持った娘を前に戸惑うことがたくさんあったのだと思います。私という大問題を養子に出すことで視界の外に追いやってしまった彼らの弱さを何のためらいもなく批判することはできません。私だって、子どもを持たないことで問題を消してしまったという点では彼らと同じようなことをしています。そう自覚しながら両親を責めて謝罪させたところでちっともスッキリなんかしないことは分かりきっているので何も言いません。傷が癒えるのをのんびりと待つだけです。