私は、代替物?

今は需要不足の時代らしいです。

需要が不足してるから経済成長しないらしいです。

OECDが格差は経済成長のためによくないというレポートを出し、各国は格差解消により積極的に動き出しています。具体的には、お金持ちからより税金を取り、それ以外、特に子どもを持つ家庭に回す、そういう政策を取ろうとしています。

政策自体は良いことだと思います。消費性向の高い低所得層の収入を増やせば消費が増えて経済成長につながる。正しいです。ただ極端なことを言ってしまうと、労働、つまり価値創造はごく少数の人々に任せて、それ以外の人は消費に専念してくださいねって発想ですよね、これって。一部の頭いい人だけ働いてくれればいいから、あとの無能な人たちは子どもぼこぼこ産んでお金遣って、経済だけ回してくれればいいですよーって。なんか、家畜扱いされているようで嫌な感じです。

うまく表現できませんが、世の中は消費者を必要としているのだなと思います。消費者には人格がありません。ただお金を使って、経済を潤す機能のみ求められています。

労働者も、世の中にとっては消費者と同じくらい人格がない存在かもしれませんが、少なくとも私自身を求められている感覚があります。働くには工夫や努力、能力が必要で、それは属人的なものだからです。

少子化問題も同じような感覚を私に抱かせます。子どもは大人よりも消費意欲が旺盛ですし、住宅、教育等の大きな出費も伴います。需要の塊とは言い得て妙です。少子化で大変だ、そう聞くたび、「私の子ども」が社会に必要なのではなくて、子どもを産めば色々買ってくれるから、「どんな子ども」でも需要喚起になるからーだから産んで欲しいんでしょ?そう思うと醒めます。

私の人生が何かの道具にされていると考えるのは不愉快です。経済を勉強していると、ふつふつと怒りがこみ上げてくるときがあります。てめーら経済学者が考えた通りに世の中が動かないのは、私たち一人ひとりに意思や考えがあって、決してバカでもアホでもないからだよバーカ!と吐き捨てたくなるのです。

経済学や政治学は、ある程度人格を無視して大衆という単位で物事を論じなければ成立しない学問なので、こんなことを思ってキーキー騒ぐ私が阿呆だというのは分かるのですが。ただ、実際の政治や経済も徐々に本音を隠さなくなってきているような気がして寒気がするのです。