フランスの言論の自由について

フランス事情に明るくないせいもあって、ここのところテロと言論の自由について調べたり考え込んでいました。色々な記事を読んだ結果、考えが形になってきたので書いてみます。

簡単にまとめておくと、世の中色んな人がいて色んな受け取り方をするんだから、当事者を目の前にして言える範囲のことを書きましょう、それは必ずしも言論の自由を損ねるようなものじゃないと思いますよ、もっと柔軟にいきましょ、ということです。

以下もう少し詳しく。

自由は極めて高価な価値観です。誰もが持てるものではありません。けれど全ての人が持つべきものだと信じています。言論の自由も。

ちょっとおかしいんじゃない?と思ったことに声を上げることは大事です。玉石混交様々な意見が出てきて、そのうち優れた価値観が力を持ち、元々あった価値観と行きつ戻りつしつつもやがて世の中を良い方向に変えていく、人々が力を持ちより自由になっていく、そういう過程を私は教科書からも学んだし、実際に見もしてきました。

少数意見の持ち主も、同じ価値観を持つもの同士集まって、慰めを得ることもできます。見も知らぬ誰かが私と同じ苦しみを訴えてくれたこと、それだけで悩みが軽くなったことが何度もあります。

言論に対する反応は悲劇も産みます。それが今回はテロという形で現れました。反応として悪いか悪くないかを論じる以前に、こういったことは起こります。身の安全を確保しようと思ったら、個人では自主規制という形で自由を一部手放さなければなりません。自由を手放すか手放さないかは、その人次第です。今回はフランスの総意として、言論の自由を手放すべきではないと判断したようです。

ただ、言論の自由を守るために自分が死ぬかもしれない、そういう状態にフランス国民全体が耐えることができるのでしょうか。どうもできていないらしい、という証拠に、フランス政府はISISへの攻勢を強めていますし、国内では通信傍受を始めています。自国民の自由を制限し、自国民より他国民の犠牲を肯定しました。当たり前だと思います。言論の自由より大切なことはいくらでもあり、(特に自身の)生命はその最たるものです。

自由はあらゆるものからの安全を確保した上でないと、もしくはリスクを覚悟した上でないと謳歌できません。それが自由がとても高価である所以です。いくらかの血で揺らいでしまうとても弱い存在です。

言論の自由とともに、信教を表に出してはならない伝統は多くの自国民の血で贖った民主主義と深く結びついており、フランスにとって尊いものです。シャルリ・エブドの宗教の権威をコケにする姿勢はその伝統を確認し担保するものなのでしょう。それは海外から民主主義の概念を輸入し、信仰心の薄さからか政教分離も特に拘りなく受け入れ、さらには空気を読んで自主規制することに長けている日本に生まれた私には実感しづらいものです。フランスに限らず、ヨーロッパのトラウマの多くは私には理解できないことばかりです。

今のフランスは国是に囚われすぎたフランス民主主義原理主義者に見えます。フランス国内外には必ずしも国是を全面肯定できない人を一定数抱えていて、私のように国是を完全には理解できない外国人もいて彼らとも関わっていかなければいけない以上は、無闇に他人を茶化すものではありません。理解できるもの同士で風刺画で自由を楽しむのではなく、せっかく素晴らしい国是を持っているのですから、進んでその傘に入りたいと思うように洗練させていく段階にあるのではないでしょうか。優れた価値観は、資本主義のように強制なんてしなくても次第に浸透していきます。優れていなければ廃れていくだけです。十分に成熟した先進国であるフランスには自国の価値観を世に問うだけの度量があると期待したいです。