努力しているのに病(あるいは自己責任病)

努力していない人はダメだという風潮があります。私も例に漏れず努力の尊さを信奉しています。努力、というか行動しないと何もできませんから、まぁ努力というか行動というか、必要ですよね。

ただそれが他人への攻撃材料に変わるとなんだかとっても息苦しくなるのです。

いいわねー、子どもがいないとお金に余裕があって、苦労が顔に出ないから若くいられるしと言われたりするのが一例ですね。苦労して子育てしてらっしゃるのだなー、嫌味でも言っていないとやってられないんだろうなー、と可哀相に思います。が、私は毎回、ええ、もうお金が余っちゃって余っちゃって、肌もおかげさまで元気でしてエステも化粧品もそんなにかかりませんからますますお金の使いどころがなくってねーおほほ!と嫌味返ししています。性格悪いですからね。

私もつくづく止めたいと思っているのですが、努力を傘にきて他人を攻撃するのは自身を不幸にすると思うのです。

努力がなんぼのもんじゃい、とも思います。

私が知的障碍というハンデを持ちながらも経済的に恵まれた生活を享受していられるのは、ほとんど努力によるものではありません。

両親そして養親が私の障碍に関する知識を持っており、莫大な費用をかけて療育を行ったこと

たまたま療育やトレーニングでなんとかなる程度の軽度障碍であったこと

図書館など、本を読む環境が整っていたこと

両親・養親が読書家かつ勉強家であったこと、勉強しているのをいつも見ていたこと

高所得で障碍に理解のある夫と結婚したこと、また義両親も養護教諭であったりと障碍に理解のある家庭であったこと

夫が常に私の服薬やコンディションについて気を配ってくれていること

職場に比較的余裕があり、ムラのある社員を抱えていても問題なくやっていけるほどしっかりとした体制を整えていること

私に決断材料を与え、親身に考えてくれる人が節目節目に常にいたこと

上記のどれが欠けても現在には辿り着かなかったと思います。おそらく私でなくても努力だけで現在までやってこれたと言える人は少ないでしょう。堂々とそう言える人は、環境を度外視しているのだと思います。

ほとんどの人は、”たまたま”うまくいっているだけなのです。”たまたま”うまくいっていない人に、努力なんて一要素を取り上げてそれが足りないからだと責めるのは、単なるオナニーだと感じます。

私は子どもを持ちたいと思えるよう、そう思えなくても不足なく子育てができるよう努力しました。でもどうしても無理でした。国のせいでもないし、私の努力不足でもないです。ただただ欲しくないのです。どうしたって無理なことはあります。

もっと業が深いのは、責められる痛みを知っているくせに、他人には努力不足をあげつらうのです。他人を嘲笑うのは、快感です。幸せへの道は、遠いです。