私の児童関連ボランティア履歴

未だに両親から孫を催促されることがあります。彼らが決まって言うのは、「優秀な遺伝子を残さなきゃ」です。

一方、私は自分自身の遺伝子を残したいという気持ちが全く理解できません。私の理解はさておいて、両親の期待通り私達から頭の良い子どもが生まれた、と想像してみても全くピンときません。

私を優れた人間と仮定して、「で、何かした?」と問いかけてみると特に何もしていないのです。周囲を見てみても、その人でなければ出来ないようなことを成し遂げた人なんて思い当たりません。思うに優秀な人って両親が想像するほど世の中に貢献していない、というのが私の意見です。そんな有象無象の秀才の群れに一人付け足したところで社会的なインパクトなんて皆無でしょう。意味がなさすぎて疲労さえ覚えます。私がそんな感じなので、優秀なという枕詞も私を納得させるには不十分でした。

そこから思考は変な方に転がっていきます。子育てにかかる巨額の金と多大な労力、もっと有意義なことに使えるんじゃなかろうかと。

子どもを持つ納得のいく理由を探していた時、たくさん本を読んで映画やテレビを見ました。その過程で、子どもをとりまく環境には色々な問題があることを知りました。そのうち、育児をするより環境をどうにかする方がよほど意義があるんじゃないかと思うようになりました。

私が特に興味をそそられたのは、貧乏な子どもです。彼らには多様な経験というものが欠けています。そして、多様な経験、例えば流行のものを持つとかテーブルマナーを学ぶとかそういったことは贅沢とされていて公的な支援を受けづらい分野でもあります。ただ、私はそういった贅沢こそが成長には不可欠なんじゃないかなぁと可能性を感じました。

当時は学生をしていて時間がたっぷりあったので、いくつかNGOの手伝いをしました。

一つは絵を描かせること。描いてもらった絵を集めて数カ国で展示会を行い、優秀者には展示会に出席する旅費を与えます。単に絵を描くことと海外旅行が好きなので、楽しいと思う子もいるんじゃないかと考えてやりました。企業へ寄付金願いの営業に行くのが仕事だったので特筆するようなエピソードはありませんが、良い事業だと感じました。

もう一つは格安の塾で教えることでした。子どもの頃につまづいた部分を教えた時は当時の苦労が報われたなと充実感を覚えましたし、答えられない質問が来た時は己の理解の浅さに気付かされる、なかなか楽しい活動でした。雑談中に面白い意見を聞くこともあり、意識して違う世代と話すことも必要だなぁと思った記憶があります。希望通りの学校に進学できたと聞いた時も、嬉しかったです。

最後にやったのは買物同行ボランティアです。貧困家庭の中には買い物をした経験がない子どももいます。彼らに会計ルールを学ばせる必要がありました。同時に物を選ぶという楽しみも得られます。具体的には、家まで迎えに行き、一緒に切符を買って、電車に乗って、モールまで行く、それだけです。おもちゃ売り場で買い物をし、レストランで食事。会計はその都度お金を渡してやってもらいます。子どもはあちこちで立ち止まるし選ぶのに時間はかかるし会計でまごまごするしでひたすら待ち時間が多かったですが、どこかへ買い物に行くというのは実は複合的で高度な技術だし、算数とかよりこっちの方がよっぽど必要な勉強だよなぁ〜と強く思いました。

ボランティアをやって思ったことは、やっぱり育児よりこういった活動の方が私には向いているということです。一人の人生を決定的に良くするより、100人の人生をちょっとずつ良くする方が意味があると感じます(良くなるかどうかは運ですが)。あんまり使いたくない表現ですが、コスパが高いです。これからもボランティアをするかは分かりませんが、やるなら同じようなことをしたいと思ってます。子どもに関わるのは何かと面倒臭いので、寄付で済ませてしまうかもしれませんが。